氷河期世代を先日は盛大にディスらせていただいたのですが、もういっこ!!!もういっこあります。
よくあるやつ!!「漫画やアニメ、ゲームは情操教育によくない!!!読書を!名著を読ませないとだめ!!」っていうやつ。
あれ、ガチで嘘っぱちなのです。ほんとかねてからこれはしっかりと布教しようと思っていた。幼少期から名作とか読ませて、思春期には世界の名著に入門させて読書家になってくれたらうれしい!みたいなバカ親とかにマジでしっかりと教えたい。
そういうやつがどうなるのかっていうのをちょっとしっかり教えてやろうと思います。
1:幼少期
サンプルはほかならぬ私です。ちいさなころから暇を持て余していた祖父に面倒を見てもらうことが多かったわたくしは、いわゆる読み聞かせっていうのが論語とか、なんかそういうやつだったんですよ。いわゆる漢籍。あれをじいさまが読み下すのを聞く。復唱する。
べつに侍のおうちに生まれたとかじゃないのです。じいさまは当時声帯にがんができて声が出なくなってしまったので、食道発声の練習でそれやってたんですね。んで、練習用のテキストが年寄り向けのそういうやつだったわけです。レコーダーをわたくしが操作する。終わったら再生。わたくしが復唱。じいさまが意味を解説する。そのあと100円もらう。
なんかこのあたりまでは、「なんだよすげーいい教育じゃん。どこがダメなんだよ」とか思う方もいるかもしれません。たしかに、「読む」っていうことに抵抗がなくなって、いわゆる子供向けの本なんかには目もくれない子供になりました。
そうなるとどうなると思います? アンパンマンにも戦隊ものにもまーったく興味なく育って幼稚園は幼稚だから行かない。保育園も行きたくないみたいになるんですよ。周りの子供なんかもうしっかり小馬鹿にしてるのです。これほんとひどい表現ですけど、「熊本の子と僕は違う」って母親に言い放ってマジで凍り付いてたのいまでも覚えてる。4歳とか5歳で。よくないですよこんなん。
これは大事な教訓ですが、そもそもそれくらいの時期から「周りの子供たちといろんな喜びや作品を共有する」っていうのが社会性を育むのにいかに大事かってことです。
ちゃんと、はやっているコンテンツに触れて、周りの子供たちと一緒に話をするというプロセスをすっ飛ばすと、こういう子供ができあがります。大変ですよ。親もですけど、本人も。「こんな幼稚なもの見せるより、この本を・・・」っていう気持ちはわかりますが、ちゃんと子供にはこどものコンテンツに触れさせましょう。このまま育つと大変なことになります。
2:中学校 高校になると・・・・
中学1年から2年のころにかけて、こういう傾向はもういわゆる厨2テイストと交わってすさまじいことになります。だいたいこれくらいから漱石とか太宰とか鷗外とかに手を出し始めるのです。これはうちの父親の趣味趣向を極めて忠実に受け継いでいるのですが、これに詩人なんかが混ざってくるとまた痛々しい感じになってくるんですよ。中原中也とかそのへん・・・・。厨2色が強まってくるにつれてここに乱歩や夢野久作なんかも混ざってくる・・・。
この辺になってくると、漫画は一切読まないみたいな感じになるんですよ。俺の本棚に漫画みたいな低俗な本は置かない。みたいな。だいたい幼稚なんだよ。なんだよあれ。みたいなことを素で言うような感じになってくる。
よくあの読書は情操教育にーみたいな方々はわかっていないのです。読書好きな少年が周りと知的に絡みつつみたいな想像してるでしょ。そういう知的イケメンに我が子が育つとでも思っているんだろうと思います。断言します。育ちません。そういう子を育てることができる親はそもそも「漫画やアニメ、ゲームは情操教育によくない!!!読書を!名著を読ませないとだめ!!」みたいな偏見がないんですよ。どうなるか。上記のような世の中をすべてバカにしながら生きていくような子が育つのです。
※ うちの親の名誉のために言っておこうと思うのですが、わたくしは一切あれ読めこれ読め等の縛りを受けたことがありません。なので、これはもう一点の曇りなく私個人の責任であることを明記させていただきます・・・・。
よくわかるエピソードがあります。
中2の時だったと思うんですけど、「今年の目標」みたいなお題の提出物があったんですよ。まあ受験に向けて頑張るとか、県大会ベスト8とかそういうの書きますよね。
堂々と書いて出しました。そして騒ぎになりました。「熊本弁は低俗な言葉なので使わないようにします」って書いて出したから。
自分が本で読んでいる美しい言葉たちと、街中や学校で繰り広げられているあの「どぎゃん(どれ)こぎゃん(こういう)」みたいな言葉が同じ日本語としてあまりに違うことにものすごく違和感を感じていたわけです。
今思えば、あの名著たちを読む前にわたくしは宮沢賢治とか井上靖を読むべきでしたね。なぜかそのへんの方言を使った名作をことごとくスルーしてしまった。
人は言葉で考える。言葉があるから、その定義がわかる。ゆえに「はじめに言葉ありき」と聖書にも書いてある。つまり思考はその人がつかっている言語に大きく左右される。
なぜ熊本はかくも人々の思考が幼稚で美しくないのか。くだらないことで言い争い、大人たちはギャンブルと風俗の話ばかりしているのか。どうして本屋の目立つところに恥ずかしげもなく漫画雑誌とエロ本を並べるのか。あ、わかった。熊本弁だ。これのせいだ。この濁音だらけの汚い言葉が、精神を汚しているんだ。やめよう。もう熊本弁を使うのをやめよう。
めちゃくちゃな理論ですし、熊本はいいところです。いまでは大好きですし、ほんと美しい土地なのですが(人も!!!)あくまで、当時。中2のねこもんくの頭の中ではゆるぎなく上記のような考えが固まっていたんですね。
なぜそうなってしまったのか。これはやっぱ読書の影響がほんと大きいんですよ。人間とかそもそもそんなに高尚な生き物でもないのに、いきなり精神の高潔な部分の上澄みばっかり集めたようなものの読み方をするわけですから。
美しい日本語で作られた美しい物語と、自分の周りの現実を比べて「あーだめだこりゃ」ってなってるわけです。あたりまえですよそんなん。
冷静に考えたら、太宰の作品なんかほんと人間の屑みたいなのがたくさんでてくるわけですが、美しい日本語でそれはそれは高尚な形に作品化されているので、そのへんが全く分かってないんですね。中2あたりだと。
いまでも結構覚えてるんですけど、人間失格という作品の
『自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧に近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。』
ていうところとかほんともう刺さりましたね。これほんともう早熟というかこういう本だけで知識とか積み上げて上から目線になってる中身空っぽの少年を実にうまく表現してる・・・。
『人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。』
これは山月記。これも今読むとすごいよくわかりますよ。そういう自意識ばかりが膨れ上がって、結局虎になって人間ではなくなってしまう。ほんとよくわかる・・・。
結局「熊本弁つかいません」宣言のせいで、まあさんざん怒られ、こっちも切れ散らかしてしまいには教育指導の先生に「じゃあお前はもう絶対熊本弁使うな!!!そこまで言うなら死んでも使うな!!」と言われたりしまして、今に至ります。
当時村上春樹なんかも読んでいたんですけど、
「僕はいいたいことの半分だけしか言わないようにしようと思った」
みたいな一文があって、そこから
「そうして気づいてみたら、いつしか僕は言いたいことの半分しか言えない人間になっていた」
とあのおされな文体で書いてあったんですけど、わたくしにとっての熊本弁はこれですね。全くしゃべれなくなってしまいました・・・。もったいない・・・・。
方言って、意識してそれもかなり強い意志をもって使わなくすると、出なくなるんですよ。リズムを失うんです。無理して使っても関西弁のまねしてる痛い人みたいになる。
友達なんかと会っても、やっぱ方言しゃべれたらよかったなーって思いますもんね。ていうかあのころのこんな中学生とよく友達でいてくれたなあと思いますよほんと・・・・。
結局のところ、へんに背伸びしてちょっと知的なコンテンツに触れさせて、そこで自意識ばっかり巨大になるとこういう問題を起こすわけです。全く起こす必要がない軋轢なわけですからね。不良とかのほうがマシですよほんと。
結局ここにロックへの目覚めなんかがまざって、文学とロックが融合した結果、実体として何も対立する必要がなかった人たちと対立して、出ていく必要がなかった故郷を出て、数十年経って「あれは恥ずかしかった」と今更ながら気づくことになるわけです。
ジャンプとか買って、お菓子食べながらみんなで読んで、テレビでアニメみて楽しんでいたらよかっただけなんですよ。別に。年相応のコンテンツに触れることってほんと大事で、あとからその時代を振り返ったときに、あんなコンテンツもあった、こんなコンテンツもあったって語り合えるわけでしょ?すばらしいことじゃないですか。
太宰だって漱石だって、当時の人たちにとっては、あのころのジャンプみたいなもんだったんですよ。たんに時代が違うっていうだけ。
そこを考えずに、へんに名著といわれるコンテンツにばかり触れさせると、こういうふうになります。いい教訓でしょ。お子様がいる方なんかはぜひ心掛けてほしい。恥ずかしいことだらけの青春を送らせる羽目になります。
3:結局どうなったか。
いまわたくしは、結構ガチ目のゲーマーだと思います。アニメや漫画もそう。だいたいの作品は知っているし、読んだことも見たこともあって、大好きです。
とくにもうゲームはアトラス作品とスクエニ作品にドはまりしていまだにやってるわけです。
これ結局全部大学なんですよ。高い学費を払って入った大学で目覚めるわけです。ものすごく遅まきながら。授業にも出ずに。
夜遅くまでゲームして、昼過ぎに大学に行って、オタク友達とかバンド友達と作品を語り合う喜びに二十歳近くで目覚めるんですよ。いやあほんと断言できますよ。こっちの方が面白い!!!
これも教訓です。時代に合わせたコンテンツはちゃんと面白いんです。そして触れるべき年代で触れずに、一気に触れるとどうなるか。ドはまりするんですよ。しかも長期間。
FF14なんてもう7年くらいしてるし、そのまえはDQXをしてたし、ネトゲ十数年やってるんですよ・・・・。40過ぎて・・・・。
もちろん、今は昔と違ってゲームや漫画なんかも市民権を得ているので、同い年の人たちなんかもたくさんいます。やっと同じ時代のコンテンツにふれてる気がしますよ。FF14とかしてると。
ほんと遅ればせながらですけど。。。
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