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  • 執筆者の写真Nier Katze

お年寄りとGoogleせんせいのはなし

香川県のお話が長くなりすぎてしまったので、ちょっとこちらは分けて・・・


かねてから疑問に思っていたことがあるのです。



なぜ、一部のお年寄りはコンピュータを嫌うのか



というやつです。


ちょっとさきほど香川県のことでいろいろ書いていて思ったのですが、これたぶん「デジタルゲーム」についての条例なんですよね。「囲碁」とか「将棋」を制限しろっていうことではないわけなんです。


将棋や囲碁はちがう!! お金もかからないし、知的なゲームだから!って言いたい人たくさんいますよね。知的なゲームというところは否定しませんが、賭け将棋なんてものもありますからね。根本的な危険性はあんまり変わらないです。(ちなみにわたくしは将棋が大好きです。いまだに将棋をそこらのおじいさんとやったりします)


なぜ「デジタル」を、「コンピュータ」を、一部のお年寄りは毛嫌いするのだろうと考えていたときにふと思ったのですが、これは単に「新しいもの」を嫌っているのではないのではないでしょうか。


ちょっとコンピュータがない時代に、ワープして考えてみましょう。




江戸時代中期の村、A村には、齢80を超える田吾作さんがいらっしゃいました。

田吾作さんは村のまさに生き字引。なにか村の若い者たちで対処不能なことがおきればみんな聞きに行きます。


作物になんかへんな兆候がでたぞ・・・・! これなんだ!?

海にみなれない生き物がいたぞ・・・! これは一体・・・!


こういう村のものたちでわからないことがあれば田吾作さんの出番です。平均寿命が50歳前後の時代。田吾作さんの過ごしてきた年月から蓄積された知識は、若い者たちの迷いを払い、解決策を授けることに大いに役立っています・・・!



さて、ここで現代にもどりましょう。


いま、同じような困ったことがあった時、どうしますかね・・・・。


みんなググるんじゃないかとおもうんですよ。年寄に聞く前に。

しかも解決しちゃってるんじゃないかと思うんですよ。年寄に聞く前に。




パソコンがなかったころは、どうだったか。物知りさんに聞く以外は、図書館にいくしかないんですよ。そして物知りさんは齢を重ねれば重ねるほどその知識を増していくので、年齢を重ねることがイコールその人の価値を増やしていっていたんですよ。


しかも図書館であーだこうだ調べるより早いんですよ。年寄に聞いたほうが。



ところが、パソコンが普及しだしたらどうなったか。インターネットがなかったころでも、一部のデータベース化された分野では、あきらかに年寄にきくより早い分野がでてしまったんですね。


そしてインターネットが登場し、検索サイトが登場しました。最初はYahooのようにカテゴライズされた情報をツリー状にたどっていくしかなかったのですが、Googleの登場は「キーワードから関連する情報を、これまた機械学習した優先順位で提示してくれる」ものに検索サイトを大きく発展させました。


これってたぶん本質的に「血縁関係等を除外した、年寄の共同体における価値」を奪ったんだと思うんですよね。



誤解の無いようにいいますが「血縁関係等を除外した共同体における価値」ですからね。家族愛とか、やさしいおばあちゃんとかおじいちゃんの価値がないといっているわけではありません。Googleがあなたをおじいちゃんやおばあちゃんのように愛してくれるわけではありませんし、あなたもGoogleをおじいちゃんやおばあちゃんのようには愛せないでしょう。


ただ、「時間や歴史から蓄積された情報を、素早く提供する」という価値は確実に奪われたと思うのです。


人間は、ただ誰かが愛情をもって接してくれるだけで自分の自尊心を保てるわけではありません。「もっと大きな範囲で役に立っているか」というのは人間の本質的な自尊心に大きく影響するのではないでしょうか。


年齢を重ねることが、知識を迅速に提供するという分野に限れば、ただ「衰えていく」だけになりつつあるのです。コンピュータのせいで。


こうなると、彼らがいわゆるデジタルなものにものすごく敵対心を抱く理由がわかってくる気がします。


香川県のはなしでもちょっと出しましたが、「ゲーム脳」の著者の本にはこのような一節があります。


ソフトウェア開発者の仕事は視覚情報が強く、前頭前野が働くのは勤務時間内でもほんの一瞬で、使い続けていない。彼らの仕事は、設計図を描くわけではなく画面(主にソースコード)を見て作る。朝9時に席に座り、夕方5時までずっと画面を見ている。ひらめいたり、集中しているのはわずかな時間で、ただ画面をみている時間のほうが圧倒的に長い。彼らは、ほとんど会話をせず一日を過ごすパターン。コミュニケーションがほとんどなく、昼休みもひとりで弁当を食べているだけ。家に帰ってもディスプレイに向かうことが多く、あまり口をきかない。


この文章自体も偏見にあふれててひどいのですが(集中してひらめいたりするのはほんのちょっととかひどいww)、ここでちょっと気になるのが、ディスプレイ・画面という言葉です。なんらかの情報が表示されている媒体という意味では新聞を読むのもモニタをみるのも同じなわけですよ。なんでこんなに「ディスプレイの前の若者」という構図にこだわってしまうんでしょうね。


結局かれらにとって、ぴかぴか光るモニタに向かう若者というのは、「自分を捨てた人たち」に見えちゃうんじゃないかと思うんですよ。


その潜在的な敵対心、いわば恋人に捨てられた未練たらたらな男のような嫉妬心が入り混じった気持ちこそ、デジタル敵視の根本にある気がするんですね。しかも自分を捨てて新しい男に走った女の子が、その新しい男と仲睦まじくしてるのを見せつけるようにして目の前にいるわけです。腹も立つかもしれません。



なんとなくこういう話になると「年寄りがひがんでるだけじゃんwww」ってなりがちなんですけどね。これ他人事ではないとおもうわけです。


よりITが発展し、AIもそれに伴う工業技術も発展していけば、例えばですが、完全に自分のことだけを四六時中気遣ってくれる、それでいて容姿端麗で頭もよいロボットなんかもでてきたりしますよ??


そのときに、いわゆる男女の恋人の価値って、今の年寄りがGoogleからその価値を奪われたように、かなりの価値を奪われかねないですよね。



そのときにたぶん、われわれはいまのお年寄りのきもちを理解できるのかもしれません。








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